各所から絶賛のサピエンス全史やっと読んだ!

GWはほぼほぼ本を読んだりー週間でした。インプットばかりだったので、アウトプットも同時にしておこうと思いまして…

根がミーハーなので、「これ読みました!」とイキリたいがために、著名人やら周りが絶賛してた「サピエンス全史」に手を出しました。

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読書の目的は、今の自分では経験をしていないことを追体験できたり、新たな知識を得たいなど様々と思います。が、やはり本にのめり込んでしまうときは、「こういうことやったかー!」や「こんな考え、捉え方があったんかー」と脳みそがびっくりする回数が異常なほど多いときです。少なくともぼくにとってサピエンス全史はそんな本の一つになりました。(上下巻あり、ボリューミーですがおもしろくてあっという間でした)

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

 

 

一言で本の概要をいうと、約7万年前から始まるホモ・サピエンスの歴史について、また、これからの世界について書かれた本です。

ホモ・サピエンスが他の動物と違い、弱々なただの一人類種から食物連鎖の頂点に立ち、地球上で多大な権力を払えるようになった因を歴史の流れに沿って周辺知識で肉付けして説明してくれる感じを受けました。。

 

以下は気になったところを抜粋してちょこっとコメントを書いていきたいと思います。

※イキリきってしまった手前、自分の保身のために先に言っておきます。ただの箇条書きで全然まとまってはいません。汗

認知革命

伝説や神話、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ!ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だが、ホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンは我が部族の守護霊だ」という能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。

「虚構」、つまりは架空の事物について語れるようになった。虚構のおかげで、サピエンスは単に物事を想像するだけではなくて、集団でそうできるようになったことが革命的だったと。だって、無数の赤の他人と柔軟な形で協力できるようになるから。何億人もの民を支配する帝国を築き、統治できた秘密は、虚構の登場にあると。見知らぬ人どうしでも共通の虚構を信じることによって、協力できるようになる。

本の中では、プジョーを例に出して説明をしてくれていてわかりやすい。

人間のアルマン・プジョーは、いったいどうやって会社のプジョーを生み出したのだろう?(中略)何千何万というフランスの司祭が日曜ごとに教区協会でキリストの身体を依然として生み出していたのと、ほぼ同じやり方で、だ。全ては、物語を語ることと、人々を説得してその物語を信じさせることにかかっていた

株式会社、国家という概念もすべてが人間が首尾よく協力し合えるように生み出した虚構であると。客観的なものだけでなく、大勢の人が共有する主観的世界、いわゆる「共同主観的」な想像の世界で私たちは暮らしているという。虚構を作り変えればすぐに行動パターンや社会構造も変えることができるので、素早く変化をし、他の生物と比較するとあり得ないほどのスピードでホモ・サピエンス世界での覇権を握るに至った。

ある会社に就職してもその虚構を信じれなくなった時点で、もうそこのコミュニティーにいる理由はなくなるし、そもそもいれないしですしね。

 

農業革命

人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量を確かに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は史上最大の詐欺だったのだ。

では、それは誰の責任だったのか?王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

 農業革命によって、個々の生活は以前より厳しくなった。でも、狭い範囲で人口を増やすことができたので、種を増やすという意味では非常に大きな役割を果たしたと。当時の人は当然より自分たちが豊かになるために農業に精を出したのだが、それはマクロ視点で種を増やすという結果だけだった。

 

最強の征服者、貨幣

裕福な農民が自分の財産を売って宝貝の貝殻一袋にし、別の地方に移ったのは、彼は目的地に着いたとき、他の人が米や家や田畑をその貝殻と引き換えに売ってくれると確信していたからだ。したがって、貨幣は相互信頼の制度であり、しかも、ただの相互信頼の制度ではない。これまで考案されたもののうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ。

貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規律、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は、人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。

貨幣についての概念をわかりやすく説明してくれる。貨幣の普遍性に関しては、どんなにアメリカと緊張関係が続く国であっても、ドルは保有している。ここからも、貨幣は宗教や国家の主義とは無関係で普遍的と言えると思います。そこでいうと寛容という表現もしっくりきます。人は貨幣というものを共同主観的に信じているからこそ、安心して貨幣を通じて他人と協力ができるというのは自分にとってはかなり納得感がありました。

 

科学革命

科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々を知らないという重大な発見だった。

キリスト教とかの以前の知識は、神などがすべての知識を持っていて、それを私たちに必要な時に明かしてくれるだけ。ほとんどの文化は進歩というものを信じていなかった。科学は、自らの無知を認めることを出発点に、貪欲に知識を求めて行ったという。ヨーロッパが帝国として他地域に比べて科学革命を推し進められたのは、近代科学と資本主義の融合だと論が進んでいくのが面白い。

ヨーロッパの帝国主義は、それまでの歴史で行われてきた諸帝国のどの事業とも完全に異なっていた。それ以前の帝国における探求者は、自分はすでにおこの世界を理解してると考えがちだった。征服とはたんに自分たちの世界観を利用し、それを広めるだけだった。(中略) それとは対照的に、ヨーロッパの帝国主義者は、新たな領土とともに新たな知識を獲得することを望み、遠く離れた土地を目指して海へ乗り出して行った

ヨーロッパ帝国主義者は、そうやって遠征に科学者を同席させて科学的知見をためていった。そして、科学がどの方向に進んでいくかは、イデオロギーと政治と経済の力に営業される。要はその科学でどのように経済成長に繋がるのか、政治的に意味があるのかという力が大きく作用したとのことです。これは今でもそうだと思います。科学は資本と結びついて実用化されて人類の役に立っていることは多くには異論がないと思います。資本家の役割が帝国の成長、科学の発展には不可欠だったことも本を読み進めると納得がいきました。端的に言えば、帝国を建設するにも、科学を推進するにも、絶対的に必要なものが、お金だということ。

資本主義

著者は、近代の経済誌を理解するのにはたった一語を理解すれば良いと見ていると。「成長」。歴史の大半を通して、経済成長という面で言えば横ばいだった。世界全体の生産量が増えたとしてもその大部分は人口の増加と土地の開拓によるものだったから、一人当たりの生産量で考えるとそれほどの成長はなかった。西暦1500年の一人当たりの生産量は550ドルだったのに対して、今日では平均8800ドルまでになるほど大成長をしている。どうしてこうなったのか…

人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に変えることに同意し、それを「信用(クレジット)」と呼ぶようになった。この信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力と比べ物にならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。将来の収入を使って、現時点でものを生み出せれば、新たな素晴しい機会が無数に開かれる。

信用創造って、ただ学校で習った時にはピンと来なかったが歴史の流れの中で説明されると理解がとてもしやすいです。そして、将来を信頼して信用供与をする仕組みに科学革命が起こり、進歩という考えが誕生したと、著者は説明を続けます。

テクノロジーの発明や発展によって、新たな市場を想像することで、パイ自体が拡大する(進歩する)という考えになっていった。

誰かが栄えれば誰かが衰退するというゼロサムゲームではなくて、将来の進歩に信頼を寄せて、その信頼によって生み出された信用で、その信用が本格的な成長をもたらせていった。またテクノロジーの進歩で無尽蔵にエネルギーと原材料が手に入るようになり、さらに物質的に豊かな社会になっていった。

科学と投資は別々に考えるのではなく、一つのヒトの歴史という文脈の中で見ていくとわかりやすいし面白い。

 

現代の資本主義は、あいも変わらずどんどん成長を続けている。毎日毎日、新しいものやサービスが生み出される。どんどんモノが作られ、需要より供給が上回った時に新たな問題が生じる。一体誰がそれを買うのか?

業界がなんであれ新しいものを生産したときには人々がいつも必ず買ってくれるようにするために、新しい種類の価値体系が登場した。消費主義だ。

消費主義は、ますます多くの製品やサービスの消費を好ましいこととみなす。そして、人々が自腹を切って楽しみ、自分を甘やかすように促し、されには過剰な消費によって徐々に自らを破滅に追い込むことさえ奨励する。

今もエリート層と大衆の間には分業がある。中世のヨーロッパでは、貴族階級の人々は派手に散財して贅沢をしたのに対して、農民たちはわずかのお金も無駄にせず、質素に暮らした。今日、状況は逆転した。豊かな人々は細心の注意を払って資産や投資を管理しているのに対して、裕福ではない人々は本当は必要のない自動車やテレビを買って借金に陥る。

資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。

 例えば、クリスマスやバレンタインもそう。消費万歳とメディアは人々を踊らせ、景気をよくするために消費をしようと大号令をかける。欲しいものにお金を使っていくこと自体はとても良いことですが、必要以上のものを買うより、やはりある程度を再投資に回していくことが自身の財産形成の上では重要だと思います。資本主義と消費主義は表裏一体という説明には納得感が大きいです。

 

ホモ・サピエンス

著書最後の章では、超ホモ・サピエンスの時代として、今後の世界のことが語られている。過去40億年にわたって、地球上の生物は一つ残らず、自然選択の影響下で進化してきたが、ついにサピエンスは生物を設計できるようになっている。ヒトゲノムは解析済みで、臓器も作ることができるし、遺伝子操作もできるようになっている。

また、昨今ではバズワードになっているAIの進歩によってシンギュラリティも近い将来間違いなく迎えるだろとも言われている。そうなるともはや人間の意識をアイデンティティの根本的な変化も起こる段階。その時点がもしかしたらホモ・サピエンスが唯一の人類種でなくなる可能性さえもある。

サピエンスにはその流れを止めることはできず、できることは科学が進もうとしている方向に影響を与えることだと著者は見ている。

唯一私たちの試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。

 

シンギュラリティを迎えた私たちは一体何を望むのか、最後に深い疑問提起をされて終わります。歴史軸に様々な知見が入り、めちゃくちゃ面白い読み物であると同時に、その歴史を受け手の今日や未来をどうしていきたいのかを考えさせられました。抱えているものは重いようでただ足取りは軽いような不思議な感覚に陥っています。

未来を明るくするのは、現代を生きる自分たちだと。そう感じたからかもしれません。